酷寒のバイカル湖氷上奮走記 今井
人影のない集合場所?
1. イルクーツク空港に集合
ホテル手配の車から降りたったのはイルクーツク空港国際線ターミナルビル前。2014年2月28日、午前7時30分、気温マイナス15℃。まだ真っ暗だ。集合時間まで30分。しかし誰もいない。
シベリアの真ん中のイルクーツクは東経105度にあるが東経135度を基準とする日本標準時と同じ時間を採用している。これだけで太陽の位置は2時間のずれが生じる。加えてここは北緯52度、樺太の北の端に近い位置だ。冬は夜が長く、昼が短い。そんなわけで本当に明るくなるのは午前9時過ぎだ。
国際線ターミナルは古い小さな建物が一つだけ。この朝は発着便もないと見えて人影はなく、ぼんやりと暗い電気がついているだけ。一方、ここから数百メートル離れた国内線ターミナルはものすごく大きな近代的ビルで、中から暗闇に明るい光を放っている。暖かそうだ。
なぜ、こんなところで降りたかって? それは日本を離れる直前に受け取ったメールのせいだ。バイカル湖マラソン参加者はイルクーツクに集合し、いくつかのグループに分かれ、バスで3時間かけて湖畔に移動する。「外国人参加者は朝8時までにイルクーツク空港に集合」とあった。 「外国人」と名指されている限り、国際線ターミナル集合であろうと考えて当然とは思いませんか?
やっと、自分と同様のザック姿の青年が現われた。 私:「バイカル湖マラソン?」、青年:「そう。あなたも?」、 私:「そう、名前はイマイ、日本から来たランナーだ、よろしく!」、青年:「俺、スティーブン、イギリス人だけど、今、カナダに住んでいる」、私:「他に誰もいないし、俺達、間違えちゃったみたいだね・・・国内線の方に行ってみよう、ちょっと距離はあるけどさ」。少し心強くなった私たち二人、暗闇の中、凍った道をそろそろと移動した。巨大な国内線ビルのドア越しに、入ってすぐのところに、保安検査デスクと金属探知機がしっかり設置されているのが見える。 集合場所だという確信もなく、ここに入るのは躊躇したが、意を決してドアを押す。 なんだ、簡単だ。係官は何も聞かず、すっと通してくれた。ロビーのはずれの方には何となく人がかたまっている様子だ。遠目にバイカル湖アイスマラソンの旗も見えた。少し遅れて、もう一人の日本から参加のランナーが札幌からモスクワ経由でやってきた。いつもニコニコ好青年ケンタだ。これで安心。これから先は流れにのればいい。
ロシアの白タクで
2.この日まで
日本を出たのは3日前、2月25日だ。春めいてきた夕暮れの成田を飛び立った。この北京行きの便、客席は80%くらい埋まっている。自分の席に着くとあわただしかった準備の疲れがシートに吸い込まれていくようだ。イヤホンから流れてくる昭和の歌を聞きながら涙が流れてしようがなかった。なつかしいメロディーを聞いていると心が飛んで、2か月前に他界した親父のことが思いだされた。・・・でも、この涙は親父というよりは、親父に対するお袋の思いに感動しているんだ。お袋は最後の介護の日々、そして葬儀の席上で親父に対する深い情を隠すことなく語っていたなぁ。この親父は銀行員の典型、他人さまには怖い人と思われていたが、本当は気が小さくて融通の利かない人だった。くそまじめだった。特に自分の女房に対して誠実に生きた。お袋はそれに報いていた。親父とはいろいろ葛藤があったけれど、こういう生き方は大きな価値をもっていたとしみじみ思えてきた。
4時間余りの飛行の後、現地時間20時30分、暗闇の北京空港に着陸。駐機場の照明灯はいずれもぼおーとにぶい光を放っている。靄がたちこめているのだ。PM2.5かなぁ。ボーディングブリッジをぬけて空港ビルに入る。高い天井と広い通路が中心に向かって続いている。そこを飛行機を降りた私たち一団がせかせかと移動していく。 高い天井の照明もぼおっと見える。この空港ビルのホールはまるで湯けむりに煙る銭湯のようだ。あたりにはものが焦げたような臭いが漂っている。小学校の時、石炭ストーブをつけると完全燃焼するまでは甘みを含んだ重い匂いが教室に漂ったが、これとも似ている。この夜の北京空港はそんなところだった。ここから外に出て、空港近くのホテルでつかの間の休息をとった。
翌、2月26日、北京空港・早朝4時半発のロシアの航空機でイルクーツクまでは3時間。8時半だというのにまだ夜明け前の真っ暗なシベリアの大地に着地。外の空気には透明感がある。北京と対照的だ。とても寒いだろうなぁと覚悟していたが、機内アナウンスで当地は現在20℃と言っていた??でもウソつくわけないよねー。雪も見えているし信じられないけどシベリアではこんな不思議なこともあるのだ・・・と権威に弱くて長いものにはすぐ巻かれてしまうのが私のおめでたいところであり、限界。でも、一瞬、間があって思い出した。日本では氷点下の気温はマイナス○○℃と言うけれど、英語は○○℃ときてそのあとに氷点以下とつける。 さっきは、「20℃」でびっくりしてしまい、あとについてきた「氷点以下」を聞き落してしまったんだなぁ、きっと。英語もちょっと使わないとなまる。なさけなや。
この空港の職員には英語が全く通じない。両替所もないので現地通貨は無一文。でも、とにかく「出ていけ」という雰囲気で狭い建物から追い出されてしまった。タクシーは・・・ない! でも、次は当たり前のような展開。年季の入ったおじさんが寄ってきて、俺の車に乗って行かないかと言う。これまた年季の入ったロシアの大型国産車の白タクだ。二人とも身ぶり手ぶりでコミュニケーション。途中、銀行に寄ってもらいホテルへ。
ホテル・イルクーツクではチェックインのときパスポートを取りあげられる。これは警察に提出して、夕方には戻ってくるだろうとの話。ロシアでは社会主義国の制度がそのまま残っているようだ。フロント係以外は英語が通じない。 外は一日中凍っているが、部屋の中はスチーム暖房をガンガンにきかせて26℃、さすがに暑いので窓をあける。道路をはさんで目の前は、バイカル湖に源を発するアンガラ川だ。川面の一部は結氷している。上流から氷もどんどん流れてくる。そしてこの川の対岸、荒れ地の奥にシベリア鉄道の貨物ターミナルが遠望される。そこで長大貨物列車がゆっくり動いているのが見える。この日は午後になって博物館を見たり、スーパーに寄ったりしながら街の中をぶらついた。
翌27日、今日は日本人墓地を捜して、お参りしてこよう。ガイドブックに写真があるのだが、住所はあんまり詳しく書いてない。全く言葉が通じない中でタクシー、バスにはどうやって乗っていったらいいのかわからないので地図で見当をつけ、歩いていくことにした。片道数キロといったところ。ホテルの外の気温は-10℃、どうってことない。しかし、街を歩いているとところどころ寒気がたまっているところがあってそこではわが愛用の温度計は-15℃を示していた。気温もこれ以下になると顔が痛い。商業地区をぬけてずんずん歩いていく。さらに郊外の道路際を何キロか歩いて目ぼしをつけたところに到着。この小高い丘の上の住宅地では犬を飼っている家が多い。木の扉で道からは隔離された庭でこちらにむかってワンワン吠えていた。道をふらふらしている犬はおとなしかったが、これが一度、自分の家と思しきところに入るとこっちに向かってありったけの声で吠えかかってくる。この内弁慶イヌめ! ここで地図を見つつ記念碑を探したのだが、それらしきところはなく、人に聞くこともあたわず、周辺を少し歩きまわったところであきらめた。帰り道は行きより短く感じたが、とにかく腹が減った。 街の大通りに入る直前、キリル文字で「スシ」と書いてある看板の店に入ったら、魚屋+コンビニだった。ここでは食事にありつけず、トイレだけ借用。
どこかおもしろそうなローカルな食堂はないかと探していたのだが、とうとう街の中心まで戻ってきてしまった。すると、英語でSUSHI-STUDIO と書いてある小奇麗なレストランが目に入ってきた。さあ、ロシアの寿司を食べるぞ!と、ここに入ろうとしたとき、ちょうど食事を済ませて中からでてくる中年婦人のグループと遭遇。この女性グループを送りにでてきた若い女性の店員さんは、私と目が会うと、何か困ったような表情で話しかけてきた。でもこちらは何を言っているのかさっぱりわからん。 で、肩をすくめて、奥に入っていって席に座ると、内部はピンク系の色調の部屋で、備品もこの色に合わせてある。雰囲気はまるで、札幌の「雪印パーラー」だった。メニューはスイ―ツと寿司が半々。スイ―ツはパフェ、アラモード、アイスクリーム、クレープ、ドリンクスなど。寿司はチーズや生クリームをつかった巻き寿司なんかあって面白い。数名の先客はすべて若い女性。スイ―ツを前におき、連れと話しこんでいる人が多い。店の人、4名も全員女性。不思議な世界。サケとチーズの巻き寿司とみそ汁を注文した。出てきたものは、すべてが小さいサイズでちょうどいい。うむ、いける! 帰国して娘に聞いたら、日本にもそういうのがあるけれど、そこも女性専用のパーラーだったのじゃない?と言われました。
ここで、この町の印象をいくつか。 ロシア女性は若い時はきれいだけれど、ちょっと歳をとると太ってしまって見る影がないよ、などということをよく聞くが、少なくともイルクーツクに関する限りはそれは嘘だ。中年の人でもアジア系の人でも綺麗な人が多いと思った。
街なかの住宅地は、かつて出張でよく行っていたドイツの街なかの住宅地に雰囲気が似ている。石とコンクリート造りの立派な建物のドアが直接歩道に面している。一方、日本人墓地をさがして歩いた郊外の住宅地は、多くが古い一戸建て木造建築。かつて札幌駅裏あたりで見た、石炭で黒ずんだ住宅地とたたずまいが似ている。多くの家は、自分の区画を板で囲い、内に庭。さほど離れていないが、二つの対照的な街並みだ。社会主義の時代が長かったと思うけど、それなりに生活格差があったのだろうか。
白タクといい、商店、レストランといい、ロシアの社会はきちっとルールで動いている印象があった。トイレや場所を聞いても親切に教えてくれる。車は歩行者を尊重して一時停車する。などなど・・・ここはカオスいっぱいのアジアじゃない! ヨーロッパだ! 日本と同じだ!・・ちょっと妙な言い方になってしまったかな? ここに来る途中で寄ってきた北京空港では、人々がとげとげしい顔つきをして、チップを要求する輩とも遭遇したので、このようなロシアのクリーンなところに感激した。この時の交換レートは1ルーブル=3円で物価は、食事代を除けば押し並べて安かった。今頃、ルーブルはこの時の半額のはず。今が行き時だ。なお、ロシアほど英語が通じない国は探すのが難しいのではないか。日本人が英会話はできないと言っていても、ここに比べればレベルは高いと思う。そんなくらいなのです。ここではドイツ語の方が通じるみたいだ。ソ連時代の東ドイツとの緊密なつながりのためだろう。
先ずはバイカル湖で装備のテスト
3. バイカルマラソンの地へ
さて、話はもとにもどります。イルクーツクの空港から3時間余りのバス旅行、途中トイレ休憩2回はありがたい。 隣の席はフランス人、ティエリー、エアバスインダストリーズで働いていて、ロシアのチュメニという都市に赴任し、営業をしているという。最近、日本航空がはじめてエアバス機を採用してくれたと言って喜んでいた。歳のころは50歳ちょっと越えたところ。 彼からは、真冬には-50℃にもなるチュメニの寒さがどんなに大変か聞かされた。お互いどんなところでランニングをしているかなどという話題で盛り上がっていたら、ブラ-ツクというスキーリゾートにあるロッジに到着。ここが私たちのねぐら。 部屋分けで日本人ランナーのケンタと同室になった。20代後半であるが、週末には大学のアメフト部のOB会で試合に出ているという。元気いっぱい。彼は前日、イルクーツクの空港に到着した後、そこから宿泊予定のユースホステルまで8キロを荷物を担いで走っていったという。走りだして間もなく、ザックのトップのチャックがあいていて、現金、パスポートが入ったバックを落とし来てしまったことに気がついた。それで急いで引き返すと、少年3人が集まって、道に落ちていた戦利品の分配の相談で盛り上がっていたんだそうだ。そこでケンタ「これ俺のだ!」と言って取り返し、チップに一万円相当のルーブルを置いてきたという。「それで済めば安いじゃないか、よかったね」と私。「そう、僕はへまばかりやるのですけど、結局、最後は神様に守られているんです」とケンタ。「実はイルクーツクに来る前、モスクワ空港で乗り継ぎの時間があったので、モスクワ大学を見に行っていたら、空港に時間通りに戻れなくて、着いたのは飛行機の離陸時間ギリギリでした。 空港の係員からゲートまで走れ!と言われ、チャレンジしたけどアウト。その後、係のお姉さんがとってもおっかない顔をして色々言っていました。でも、奇跡的にもう一便あったイルクーツク行きに乗せてもらえて何とかなりました。ロシアのお姉さんがきれいで、親切、魅力的だという今井さんの意見には同調できないなあ。 ちょっとおっかなすぎますよ。」だと。「そりゃそうだ、でもケンタが悪い!」
昼食の後にはティエリーと一緒に、バイカル湖まで装備のテストに行った。彼はトレイルランシューズの靴底に木ねじをとめ、スパイク代わりにした靴をもってきていたので、これが氷の上で有効か確かめたくて、私は二種類の滑り止めアタッチメントを持ってきたが、どちらが有効か確かめたくて同道した。バイカル湖畔までは片道2キロ。小径をたどって行くと、前方にシベリア鉄道の土手が現われた。そこ、本来は地下道を通るのだか、閉鎖されていたので、土手をよじ登り線路を横断しようとした。近くでは大男たちが保線の工事をやっていたが、我々には特に関心を払わず。それにしてもシベリア鉄道はよく通る。上下合わせて一時間に4本ぐらい見た。騒がしい電気機関車のあとを貨車がゴトン、ゴトンとゆったりとついていく。いずれも一キロメートルくらいの長さの長大編成だ。
集落をぬけて、湖畔に達し、雪の上を、湖の中央部に向けてどんどん進んでいくが、このあたりはどこまで行っても雪が深くて、氷の上の実験はできそうにない。「しょうがない、引き返すか。」 岸辺の方を見ると4つの点々が移動していくのが目にとまった。「何だろう?」と近づくとヒト。若い女の子たち。多分、女子学生だろう。この4人組と湖の上でお互いに接近してきた。ニコニコ笑顔でかわいらしい。私たちには一生懸命に英語でコミュニケーションを取ろうとしてくれた。 じきに4人とも雪の上に座ってしまった。 「何をするのだい?」「瞑想しようと思うの、ウフフフフ!」「それでは、バイバイ」でした。
バイカル湖 長軸600キロ 最大幅60キロ 世界の淡水の20%
4. ミーティング
夕食ではケンタ、私、とアイルランド人二人組、マイケルとミシェルと一緒に席についた。二人とも日本に来たことがあるのだそうだが、その時には幸い、よい印象を得たようだ。
食事の後のミーティングではレースについてオーガナイザーのオルテガさんから説明があった。 このイベントの公用語はロシア語、英語であるが、彼女、英語はあまり得意でないの、と言い訳をして、第3の言葉、自分の得意なドイツ語の説明を加えていた。ちょっと内容を紹介しよう。明日走るバイカル湖は長軸600キロ、最大幅60キロ、世界の淡水の20%がここに存在する。最深部は1680メートル、平均深度950メートル。スタートはタンホルという村、ここから車で1時間半。そこから湖を横断して、フルマラソンのゴールは対岸のリストビヤンカ。ハーフは湖の真ん中がゴール。ここでフィニッシュしたランナーはホーバークラフトで対岸に運ばれる。荷物はスタート地点で預けると、ホーバークラフトで対岸まで運ばれる。今年はフル、ハーフを合わせて151名がエントリーしている。ランナーの出身国を多いところから数えると、ロシア73名、ドイツ20名、日本16名、そのほか数名参加しているのがアイルランド、ポーランド、英国、オーストリア、フランスといったところ。日本人は本土から行ったのは私とケンタの二人でこちらのロッジ、あとはモスクワ日本人会のランニングクラブから15名参加していて、別のホテルに宿泊しているという。これらの人とは翌日、スタート地点で顔をあわせた。
ミーティングの最後にここにいるメンバーで記念写真をとって解散。ベッドに入ると、明日のこと、マイナス20℃のところを走るのにあんな服装でいいのだろうか?氷の上ですべらないか? などと次から次へと不安が湧いてくる・・・でも、そのうちに意識を失ってぐっすりと眠れた。
顔には「ちふれ」の化粧クリーム?!
5. マラソンの日の朝
3月1日、7時起床!! いよいよ、待ちに待った試合当日だ。この足でバイカル湖を横断できるのだ!と高揚感が下腹あたりから胸の方に湧きあがってくる。 外は満点の星、今日はすばらしい一日になりそうだ。 8時20分までに朝食、荷づくりをおえて集合しなければならないので、ゆっくりしてはいられない。 参考までに本日の服装を下から上に書いておく。
- ラン靴:アシックス社、スノーターサー(札幌のスポーツ用品店から取り寄せた雪道用のランニングシューズ)。
- スパイク(ゴムで靴に装着するタイプ。これがないと、ブラックアイスの上はスノーターサーでもすべってしまって走れない。39Kまでは外れることがなかった。)
- パイル地の靴下。
- ブリーフ(スポーツ用)。
- 冬山用ももしき(ひざ丈)。
- ウィンドブレーカーのズボン。
- 冬山用長袖アンダーシャツ。
- ウインドブレーカー上着(アンダーウェアの上に直接はおる)。
- ラムスキン手袋(内側羊毛)。
- 首おおい。
- 毛の帽子(エベレストマラソン支給、英国製ハイテク製品)。
- スキー用サングラス。
- 顔には「ちふれ」の化粧クリームをぬったがこれが寒気から肌を守ってくれて実に正解。(東京の旅行社のロシア人の女性からアドバイスを受けた。)
- 下腹にはワセリンを塗り冷気による下痢を予防した。
8時30分、ちょうど夜明けとともに数台のバンに分乗して出発。1時間弱のドライブの後、ドライブインで別のホテルに宿泊した一団と合流。さあ、いよいよ近づいてきた。タンホル着。明るい日が差しているが、気温は-20℃。この服装では寒くてじっとしていられない。ホーバークラフトに荷物を預けた後は、そこらを走りまわって体を暖める。
バイカル湖の神様にミルク?!
6. マラソンスタート前
さあ、みんな集合! スタート前の儀式だ。 お皿に注いだミルクを少し口に含み、のこりは指先で湖に散らして、バイカル湖の神様にここに入るお許しと今日の無事をお祈りする。この信仰は、ヒマラヤから始まって、チベット、モンゴルとつながっているアニミズム文化と共通していると思う。このミルクはとても濃かったので口に含むのはほんの少しにしておく。
さぁスタートだ、全員、スタートラインに集まれ! このイベントは多数を占めるロシア人にとってはオラがレースみたいな感覚らしい。仲間内で冗談を言って陽気にはしゃいでいる。 用意!・・・ドンとなる前に・・・一部のランナーがフライングをしてしまったため、スタートやりなおし。
スタート直後 (中村正樹氏提供) |
7. マラソン序盤
今度は本当にドン! 雪道を一団となって走り始める。寒さをものともせずに、われらはいくぞ、エイホー、エイホー! と、ここで走れる喜びを体いっぱいで表現しながら湖の中に繰り出していく。スタートしてからしばらくの間、岸の近くは深い雪。多分湖からの風で雪が吹き溜まっているのだろう。足に抵抗があり消耗だ。そのあと湖の中にでてくると浅い雪となりスイスイ走れる。ときたま雪が凍ったところがあって、すべるので慎重に通過する。 3キロ、5キロと進むうちにランナーがだんだんばらけて間隔が開いてくる。時折、雪がなくなり氷が姿をみせ始める。風が強くて雪もあまり積もらないのだろう。10キロ地点で最初のエイドステーションだ。ホーバークラフトが停まっていて、その近くにテーブルを並べている。上には水、紅茶、乾燥フルーツ、ナッツ類、クッキーなど。紅茶は暖かさが胃の中までしみわたる。うまい! スタッフの若い女性もフレンドリーだった。 日に照らされて気温が上がり、このころは -7~-8℃くらいになった。
8. マラソン中盤
だだっ広いところを走っていると砂漠マラソンを走っているような錯覚におちいる。砂漠ではデユーン(砂丘)がきつかったけれど、こちらはブラックアイス。表面ツルツル、靴底にスパイクのアタッチメントをつけていても滑る。このブラックアイスが10キロエイドを過ぎてから本格的に現われてきた。前方に女性ランナーが一人。あの位なら追いつけそうだと、がんばってスピードをあげて追いつく。でもあちらも簡単に許してくれない。抜きつ抜かれつしながら進行する。ハーフ、21キロ地点に達する。ここまでで2時間31分。自分にとってはまあまあだ。 フルマラソンコースの横にはハーフマラソンゴールがある。このお姉さんはこちらに進んで走りを止めてしまう。がくっ。ここで、突然、前方の走路から人が少なくなった。途中で私をぬかしていった人もかなりの人数がここでおしまい。ここでゴールした何人ものランナーが大きなテントで寝そべって休んでいる。ある程度の人数がそろうとこれらの人をホーバークラフトで対岸に運んでいるようだ。私にとっての安楽な生活はまだまだ先だ。
ここのエイドステーションでは記念の写真をとってもらう。私がバンザイのポーズをしたら、乗りのいいスタッフのお兄さんが、バンザイ、バンザイとやってくれた。心がなごむ。ここでがたっと人が減ってしまった道を再び走り始める。多分、私くらいの遅い速度のランナーの大部分はハーフでよしとしているのだ。フルにチャレンジするような走力をもった人は一団となってずっと前に行ってしまったようだ。でも前に何人かのランナーがみえている。ハーフ過ぎからはブラックアイスが頻繁に出現、つるつるの無色透明、クリスタルな氷。光は中で吸い取られ、暗い奈落の底が足下に広がっていて、邪悪な意志が私をそこに引き込もうとしているようだ。不気味だ。そしてひび割れの線が、ところどころ、白く直線的にクリスタルの中を走っている。このブラックアイスはスパイクを使っていてもきわめてすべりやすい。よってスピードダウン。この時、呼吸はものすごく楽になった。
どこかで氷が割れているようだ
このころ、どこからともなく、ドワ~ン、ボヨヨヨ~ン、ドーンなどと低温で腹にぐっとくる音が聞こえてくる。どこかで氷が割れているようだ。ブラックアイスにおおきな亀裂が入っていて白木の木材が2本、渡してあるところをそっと渡る。ここで一人の女性ランナーに追い抜かれた。この人、ブラックアイスでもスピードを落とすことなくどんどん行ってしまった。慣れたものだ。一方こちらはブラックアイスでは、スパイクをつけているにもかかわらず、時折、すべって転んで氷の上に体を投げ出していた。この時は氷の上に寝そべって、一瞬、楽になる。
足元に拡がる暗黒の世界:ブラックアイス (中村正樹氏提供) |
前方には自分よりもっとブラックアイスに苦労しているランナーが見えてきた。スピードをあげて追いつく。あれ、日本人の若者じゃないか! モスクワ駐在員のお兄さん、がんばってね、と言いつつ追い抜く。一人追い抜いてエネルギーをもらう。 さらに、28キロ地点付近ではずっと前方に小さな点と見えていた人にようやくのことで追い付くも、あちらがスパート。これにはとてもついていけない。まぁいいか、でも、また一人ぼっち。 30キロ地点をこえたところでタイムは4時間弱。自分じゃ前半と同じように走っているつもりだがスピードはかなり落ちてきている。 さらに32、3キロくらいまでは前に二人三人の姿が見えていたがそれが点になり、35キロ過ぎには前にも後ろにも人影が全く見えなくなってしまった。さっきのお兄さんはどうしてしまったんだろうなぁ。
汗が赤ちゃんの握りこぶし大の氷の塊に~
太陽が傾いてきたようだ。再び気温が低下してきたのがわかる。このころからまぶたが重く、気を抜くと目が閉じてしまうようになってきた。(後で聞いたところによると凍傷の一種だそうだ。)孤独感に恐怖心のスパイスを少しまぶしたような感覚。 まるで一人で海にボートで漕ぎ出していって、断崖の下にまわりこんで、陰になったところで黒く下に広がる海の暗い空間に恐怖心を感じている・・・ひとりぼっちでブラックアイスを通過していてそんな気持ちがしてきた。 そんなことは頭から振り落として、50メートル間隔で氷にドリルで穴をあけて挿してある、コースの目印の赤旗を追って走っていく。距離を調整するためかコースは大きく弧を描いている。手袋の手首の部分は汗でぬれたところが凍ってこちんこちんに硬くなっているのに気がついた。ウィンドブレーカーとアンダーシャツの間では汗が赤ちゃんの握りこぶし大のしっかりした氷の塊になってゴロゴロと背中に当たる。
対岸のリストビヤンカの建物が遠くに小さく見えてきた。このあたり、でこぼこの氷原が出現、足をとられて転びそうになる。後で聞いたところによると、まだ氷が薄い時に地震があって割れてそれが風で吹き寄せられてできたそうだ。
9. マラソン終盤、そしてゴール
39キロ地点で右のシューズにつけたスパイクが外れた。かがんで直そうとしたら、突然のめまい。自分を囲んでいる空間がグルグル、グルグル、グルグル、まわりだした。このまま、氷上に倒れこんだらどんなにか気持ちいいだろう!という誘惑の声も聞こえた。でもなんとか踏ん張って、ふらふらしながらこのスパイクを装着した。ここでエネルギー補給のウェハースとエネルギージェルを食べ、気分転換を図り、体制を立て直した。
41キロ地点で今度は左スパイクがはずれた。これを装着しようとしたら、さきほどよりすごい目まいが襲ってきた。ここで倒れこんだら、それっきり起き上がれないような気がする。でもゴールまではそれほどの距離はない。それに多分岸辺近くは雪があってそんなに滑らないだろう。装着はあきらめて、スパイクを手で持ってそのまま行くことにする。左足はスパイクなしですべって不安定。 よたよたしながらゴールにむかった。
岸辺の町並みがどんどん大きくなってきた。湖面でアイススケートをしている人も見えてきた。湖面が氷から雪に変わるだろうという期待は裏切られ、ずっと氷が続いていたので何度も転倒したが、ゴールは目前だ。ゴールの看板の横で何人かが手を振ってくれているのがわかる。これで暖かい、守られた場所に行ける。うれしい。結局、5時間51分05秒でゴール。フルマラソンではそれまでの自己最長記録。ロードレースとは比較できないけど、つまり自己ワーストってこと。でも、白い雄大な世界にどっぷり浸って、様々変化する走路をスリリングな思いと、走れる喜びを存分に堪能して制限時間内にゴールできた。今日は一日最高だった!と心の底から満足感が湧いてきた。
ゴール後、ハーフランナーで先に来ていた西欧人が湖岸からホテルまで親切にサポートしてくれた。私の足元がよっぽどおぼつかなかったのだろう。ホテルは高原リゾートホテルという趣のしっかりした設備のところだった。ロビーではもう着替えてしまったランナーたちが集っていた。
高温多湿条件でマラソンを走ると、非常に体力を消耗しあとにダメージが残る。一方、低温は体力を消耗することなく、体に優しいと思っていた。しかし、ここでは39キロ以降、立ち止まるとひどいめまいがして、直立していられなかった。世界がグルグル回っていた。ゆっくり走り、あるいは歩くとそれがおさまった。多分、心臓の動きが相当弱まっていたのだろう。このような状態でエネルギー補給のウェハース(1ケ188キロカロリー、25キロ以降3ケ食べた)とエネルギージェル(180キロカロリー)を持っていったのは正解であった。ウェハースとエネルギージェルを39キロ地点で摂って元気を取り戻した。
10. パーティー
最後は表彰式兼パーティーだ。一眠りしてから同じホテルにある会場へ。ケンタはまだ来ていない。スタート地点で会ったモスクワの日本人会の人がいるので、話しかける。「僕も仲間にいれてよ」。・・・モスクワの日本人会は会員数1800名、その中にランニングクラブがある。バイカルアイスマラソンは5年前までは参加人数40名前後。そのころからモスクワ日本人ランニングクラブは毎年10名以上のランナーを送りこんできたので、主催者とは特別の関係だそうだ。この年もランナー、応援者、カメラマン等15名が参加していた。勤務先は商社、銀行、メーカー、広告代理店など。 これらの人とは、異なる背景をもつことからくる適度の緊張感と、共通の価値観をもつことからの安心感の入り混じったビジネスマンどうしの感覚で話をした。久しぶりだ。 現役時代の社外のパーティーではこんな雰囲気だったなぁ、とノスタルジーを感じる。いずれの人も国際的センスが豊かだ。当たり前か。この主催者とも仲間意識があるようで安心して見ていられた。これらの人は私にとっては手も足も口もでないロシア語をつかって、主催者とコミュニケーションして、私にその概要を教えてくれた。かっこいいし、ありがたい。ここでは大手食品メーカーのロシアの子会社社長と特に親しく話をしたが、彼は着任後まだ6カ月。ロシア語はモスクワ赴任を言い渡されてから3カ月、自分で必死に勉強したとのこと。それでここまで話せるようになるとはすごい。モスクワ駐在員の人、誰もが初めての地方出張が試金石だと言っていた。実践は何物にも代えがたい学校だ。 実は自分も若い時、会社から名古屋の大学に研究員として派遣されていた時、自分のテーマに関連したロシア語の論文を読みたくて、新栄にあった日ソ友好協会に毎週土曜日に通ってロシア語の勉強をしたものだ。ちょうど、ソ連がアフガニスタンに侵攻したころ。日本はモスクワオリンピックもボイコット。クラスメートも先生も、誰もそのことには一切触れずに勉強した。この体験を通じてロシア語がいかに難しいか、身にしみてわかった。その時の先生曰く、ロシア語教師がソ連政府に招待されてモスクワに行ったのだけれど、その半数の人は聞く、話すが全くできずにショックを受けて帰ってきた。 ロシア語には日本語の「てにをは」に相当するものがなくて6つの語尾変化でそれを表わすが、固有名詞に近い科学用語、技術用語まで語尾変化をするので、それを見抜いて文章を理解しなければならない。一年勉強して、くだんの論文は読破したけれど、ロシア語はじきに忘れた。今でもキリル文字は読めるけれど意味はさっぱりだ。でも、ご愛敬のあいさつくらいは言える。
ピッチャーからついだクラムベリージュースでのどをやわらげながらウォッカをストレートでやった。これ、最高の飲み方。悪酔いしなくてあとがすっきり。宴たけなわのころ、一人ひとり名前を呼ばれて皆に拍手をされながらメダルと記録証、完走Tシャツをもらった。大分、酔いがまわってきたので自室に引き上げる。駐在員の何人かの人は翌朝早く起きて日本人墓地にお参りに行くという。ホテルの近くの丘の上にあるそうだ。
11. バイカル湖よさようなら
翌朝は前夜のウォッカのせいか、寝坊をしてしまい、比較的遅くになって食堂に行く。昨夜のなつかしい顔をみつけテーブルを共にする。日本人駐在員の何人かはすでにお墓参りに行ったそうだ。ここに来る前のイルクーツク、そしてこのリストビヤンカとも日本人墓地をおまいりする機会を逃してしまった。返すがえすも残念だ。 この旅で体感した極寒のシベリアの地で厳しい抑留生活を送った上で果てて行った同胞がいたのだ。 多分、今の私よりずっと若い人たちだったろう。 このことに思いを馳せるとやるせなくなる。多分駐在員の人たちも同じ思いなのだろう。この時、日本人としての同胞意識を強く感じた。次の時には是非とも墓参をして、ここで亡くなった人々の魂に手をあわせたい。
10時過ぎ、ホテル前の広場に駐車したチャーターバスに乗り込む。席について窓から外のダイヤモンドダストが弱い朝日に反射してきらきらと輝いている光景をぼんやり眺めている。 前日のバイカル湖を横断していたときの高揚感、自然に対する畏怖の念、孤独感、ゴールしたときの達成感、前夜、モスクワ駐在員の人と酒を酌み交わして楽しかったこと、日本人としての同胞意識など静かに反芻していると、バスはイルクーツクに向けてゆっくり動きだした。
編集から:こんな精神力の強いおじさん今までにお会いしたことがありません。
2013年一緒にサハラマラソンに挑戦しましたが、オーバーナイトで私は疲れて睡眠をとってしまい、大きくリードされました。やっぱり気持ちが強くなくては。